ダーウィンに消された男

『進化論』と言えば自然と出てくる名前がチャールズ・ダーウィン
彼の著書『種の起源』も有名で、この論文を読んでいなくても名前くらいは小学生だって知っている。
しかし、この『種の起源』は、無名の研究者の論文を盗用したものだったとする説が囁かれ続けている。
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本日11月7日は『ダーウィンに消された男』アルフレッド・ラッセル・ウォレスの御命日です。

1858年、チャールズ・ダーウィンはロンドン郊外で長年取り組んできた『ビッグ・スピシーズ・ブック(自然淘汰)』と呼ばれる長大な論文の執筆を続けていた。これが『種の起源』の要約本である。
そんな彼の元に、遥か東南アジアのテルアナ島(現インドネシア)から一通の封筒が届いた。送り主はアルフレッド・ラッセル・ウォレス。
彼は熱帯のジャングル等で珍しい昆虫を捕らえては標本にし、大学などの研究施設に売って生計を立てていた在野の研究者であった。そのため権威ある大学の研究者からは「ムシ獲り」と蔑まれていた。
ウォレスはエズマス・ダーウィン(チャールズの祖父)の唱えていた進化論とも異なる独自の説を展開し、『新種の導入を規制してきた法則について』と題したレポートを執筆し、学術誌に寄稿していた。
ダーウィンもこのレポートを読んだとされ、自分も似たような課題を長年研究しているという内容の手紙を送ってウォレスを牽制した上で、『ビッグ・スピシーズ・ブック』の執筆を続けていた。
しかし、ビーグル号での世界周航を終えてから20年以上が経過しても、ダーウィンは自らの進化論を完成させるための明確な理論を見出せなかったため、論文は遅々として進まなかった。
そんな時に研究の競争相手だったウォレスからの手紙だったのです。
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ウォレスから届いた論文は「今日ではダーウィンの進化論として知られている論理が、完全な形で述べられている」と言われている。
一方、ダーウィンはウォレスの論文が届いた同じ1858年6月に、知己の植物学者ジョセフ・D・フッカー卿に宛てて「自然界において種がどのように分岐するかという、長い間頭を悩ませていた問題がついに解けた」という内容の手紙を送っている。
ダーウィンは自伝の中で、この分岐の原理は馬車に乗っているいた時に突然ひらめいたとしている。
そしてダーウィンの『自然淘汰説』は約3週間後の7月1日にロンドンでのリンネ学会の冒頭で発表された。
20年以上も没頭しながら形に出来なかった進化論が、馬車上でのひらめきからわずか20日あまりでまとめられたというのである。

この問題を解く鍵はウォレスがダーウィンに送った手紙が、ダーウィンがフッカー卿に手紙を送るよりも前に届いたのか、後なのか、という事であるが、残念ながら消印が捺されていた封筒は破棄されてしまっている。
これは意図的な『証拠隠滅』だったとも考えられる。
もし、これが事実なら、今日、科学史上もっとも影響力のある理論の提唱者として知られるダーウィンは、『科学史上最大の陰謀に手を染めた人物』という事になる。。。

亡きウォレスは何をおもう・・・


余談ですが、『進化論』を検索してみたらこんなイラストが出てきました。
なかなかブラックでいいね。
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この記事へのコメント

2019年12月25日 02:37
1882年にダーウィンが死去して以来、ダーウィンの研究が本当に達したことへの私の貢献に対して、完全な誤解に基づくやや変わった賞賛と名誉を私自身が受けていることに気づきました。
…大胆な少数の人々は私が最初に[自然選択を]発見し、それからダーウィンに道を譲ったと断言しました…。
しかし新聞と大衆によってしばしば忘れられるのは、私(1858年2月)よりも20年近くも早く、1838年11月に、ダーウィンの心にアイディアが浮かんだということです。
そして20年間の間ずっと、膨大な生物学、園芸、農業の文献から苦心して証拠を集めていました。
私が自然のいかなる真剣な研究についても考えたことすらなかった1844年の時点で、ダーウィンは見解の概略を書き留め、友人であるサー・チャールズ・ライエルやフッカー博士と意見交換しました。

The Darwin-Wallace celebration held on Thursday, 1st July, 1908 by the Linnean society of London.
Printed for the Linnean Society. pp.5-8

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